偽札や兵器の実験も?登戸研究所の跡地へアクセスし資料館を見学

管理人の little entrepreneur(@litpre_libelife)です。

 

先日、戦時中に偽札や化学兵器を秘密裏に製作していた「登戸研究所」の跡地に行きました。

今回は、そこで見聞きしたことをまとめます。

 

 

 

登戸研究所の遺構群

 

登戸研究所の跡地は川崎市多摩区の生田駅から徒歩10分程度の場所にあります。

研究所が存在した当時の遺構の一部は跡地の敷地内に残されています。

 

1943年に研究所が建立した「弥心神社」であり、知恵の神様を祀っているそう。

現在は生田神社と呼ばれています。

 

この地に登戸研究所が存在したことを物語る石碑があります。

 

研究所時代に設置された消火栓です。旧陸軍の五芒星のマークが刻まれています。

 

先ほどの消火栓は地中に埋まってますが、こちらはまるごと展示されている。

 

以前は、偽札を製作していた印刷工場の跡地がありましたが、現在はすでに取り壊され写真のみ残ってます。

 

現地の掲示板には用途不明と記載されてましたが、この倉庫跡は弾薬庫と呼ばれているそうです。

 

 

資料館の内部を見学

 

登戸研究所の跡地には、当時の資料を保存した資料館があります。

 

開館している時間であれば、誰でも無料で見学できます。

また、館内の資料は撮影も可能です。

 

館内に入ってすぐの場所に、先ほどの印刷工場に使用された建物の部品が展示されてます。

 

登戸研究所の内部には五つの展示室があり、それぞれのテーマ毎に分かれてます。

 

第1展示室には研究所の運営体制や全体像が確認できる資料が見られます。

第2~4の部屋は研究所のそれぞれの機関(第一科~第三科)についての展示です。

そして、最後の第5展示室は敗戦後の研究所に関する内容となってます。

 

 

風船爆弾を開発した第一科

 

第2展示室では、戦時中に風船爆弾を開発していた第一科の活動内容について展示されてます。

 

風船爆弾は、太平洋戦争の際にアメリカ本土を攻撃する目的で製作されました。

和紙をこんにゃく糊で貼り合わせてつくった気球を偏西風に乗せて飛ばしたアレです。

これらの材料が利用された理由は、中身の水素が漏れにくいからとのこと。

 

実際に製作している様子を収めたものです。

当時は、こんにゃくの生産地に住む学徒や子供たちが、その目的を何も知らずにつくっていたというから恐ろしい…

 

展示室内には風船爆弾の模型もあり、なかなかに迫力があります。

 

廊下の展示では、風船爆弾に使われる和紙やこんにゃく芋などを実際に触れてみることもできます。

 

 

諜報部員用の道具を製作した第二科

 

登戸研究所の第二科では、暗殺用の毒物や生物兵器、諜報用カメラや携帯式の武器など、諜報活動に必要な道具をつくってました。

第三展示室では、ライターやカバンの形を模したカメラや毒物を仕込んだ万年筆など、様々な道具が紹介されています。

 

時計式の時限爆弾らしいです。これが急に爆発するなんて想像するだけで恐ろしいですね。

 

諜報活動に関する書物や細菌学に関する論文が集められた雑誌など、当時の資料も展示されてます。

 

毒物は相手の目をいとも簡単に欺けますし、生物兵器はバラまかれてしまえば防ぎようがないのですね。

そのため、本当にとんでもないものをつくっていたのだなとしみじみ思いました。

 

登戸研究所の研究員は、こうした技術の開発のために民間企業に出向し、仕入れた知識を内部で共有していました。

このように、研究所で開発される技術は、戦時中の日本で重要な位置を占めていたと考えられます。

 

 

偽札を製造した第三科

 

長引く日中戦争の状況を打破しようと考えた日本軍は、中国経済を混乱させるために偽札を製造及び流通させる作戦に出ます。

そして、偽札の製造を担ったのが第三科であり、資料館の第4展示室に資料があります。

 

偽札を刷った目的は、インフレによる中国の法幣価値の弱体化や偽札を用いた物資の調達を狙ったものでした。

この情報は外部に漏洩されては非常にマズいので、第三科は最重要機密の研究施設と言えます。

 

第三科が当時、使っていた建物の遺構が展示されてます。

 

裁断される前の状態で偽札が展示されてます。

 

日本の製造した偽札は小額紙幣が多く、中国政府の高額紙幣の発行に敵わなかったらしい。

結果として、通貨戦争では勝てなかったということ。

 

こういう両国の通貨における駆け引きも面白いですね。

 

 

敗戦後の登戸研究所

 

敗戦後の尋問に備えて、登戸研究所では大規模な証拠の隠滅作業が実施されました。

 

登戸研究所は、疎開先の学校の校庭に実験器具などを埋めて証拠隠滅を図ろうとしていました。

 

GHQの尋問の結果、化学兵器の情報提供と引き換えに研究者は免責され、後の朝鮮戦争の際には米軍に協力することになります。

やはりアメリカはしたたかだ…

 

登戸研究所そのものは取り壊され、一部の遺構が残るのみとなりましたが、その技術は戦後も受け継がれているということですね。

 

 

こんな感じで遺構を散策し、資料館内部も見学しましたが、興味深い展示がたくさんありました。

また、敷地内には実験に利用した動物の慰霊碑も残っており、戦争で犠牲になった命は人間だけではないことも知りました。

 

登戸研究所は戦争のために利用された「負の遺産」です。

しかし、非人道的な兵器を開発した過ちを繰り返さないためにも、極めて貴重な資料だと感じます。

 

ところで、この登戸研究所の跡はなんと…

 

明治大学の生田キャンパスの敷地内にあるんです!驚いたでしょ笑

ガラス張りの素敵な建物ですね。

 

大学の敷地内は緑も多く、素晴らしい環境でした。

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2 件のコメント

  • 亡くなった母が女学生の頃、勤労奉仕とやらで風船爆弾を作ってたそうです。おなかがすいてすいて、糊付けの糊をなめた、って言ってました。私が小さい頃遊んでた陸軍の遺構も、最近になって、毒ガスの製造廃棄物がどうとか、問題になってました。陸軍の星の紀章も、祖父の形見の軍服に付いていたのを見たことあります。それほど大昔ではない私達の先祖も恐ろしい恐ろしい恐ろしい戦争という名を借りた、人間同士の殺戮に加担していたんですね。

    • somewhere様
      いつもコメントありがとうございます(^^)

      学生が無自覚に戦争に加担することになったのは、とても残酷なことだと感じます…

      このような歴史は事実として存在するので、後世に伝えるためにもブログで発信する意義があるといいですね。

      微力ではありますが、今後も戦争遺産を含めた様々な廃墟を紹介していきたいです。

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    little entrepreneur

    「さとり世代」と呼ばれる若者です。 なんでもやりたがり屋な性格のため、現在は投資を中心として、いろいろなことに挑戦しております。 人生の目標は、自分らしく自由に生きること! 趣味:読書、廃墟探索、史跡巡り、音楽鑑賞、サッカー観戦、英語学習 投資:FX(外国為替証拠金取引)、仮想通貨、インデックス投資、ETF(上場投資信託)