松尾鉱山の廃墟の歴史や鉄道廃線跡について

管理人の little entrepreneur(@litpre_libelife)です。

今回は、かつて「雲上の楽園」と称された松尾鉱山の歴史や「松尾鉱山鉄道」の廃線跡等について書いていきます。

 

 

 

松尾鉱業株式会社と共に発展

 

大正3年の松尾鉱業株式会社の設立から松尾鉱山は大きな発展を遂げることになります。

ここでは、少し松尾鉱山の歴史について触れてみたいと思います。

 

当初の八幡平松尾地区では、稲作とそ菜づくり等の農業が主な産業でした。

 

ただ、松尾村では古くから硫黄の塊を用いて付木をつくっていた歴史がありました。

そして、明治21年に鉱業権を主張して試掘願いを出したことが後の鉱山開発の端緒となります。

明治期には開発が始まっていたんですね。

 

その後、大正3年に実業家の中村房次郎が松尾鉱業株式会社を設立し、本格的に開発が進んだことで松尾鉱山は東洋一の硫黄鉱山となります。

 

当時、採掘された硫黄は、肥料・プラスティック・ゴム・石鹸など多様な用途で活用されて売れ行きも好調だったため、松尾村には潤沢な資本が集積していました。

硫黄の需要が高い時期にビジネスを始めて鉱山を開発したことが大きな発展に寄与したといえます。

 

 

会社を中心に成り立っていた暮らし

 

会社の設立以降、硫黄鉱山として発展していった松尾鉱山では雇用の創出によって県外の様々な地域から労働者が集まりました。

 

鉱山の施設には、最新鋭の機械が導入され、社員のためのインフラ整備もなされました。

なんと、鉱山に立地する病院では、当時は最先端技術だったCTもとれたそう!

 

特に社員のための福利厚生は手厚く、家賃や教育費も全て無料でした。

また、労働者の給与は当時の公務員の平均賃金の3倍くらい貰っていたとのこと。

それも現物で支給されていたというから驚きです。

 

アパートの暮らしは全館暖房つきでダストシュートも備え付けられていました。

また、昭和初期には珍しく学生たちは、製服やズックなどで学校に通っていたと言います。

加えて、蓄音機やラジオ、手回しミシンなど、当時は富裕層しか持たないものも保有していたそうですよ。

待遇が良く物資にも恵まれており、生活レベルも非常に高かったということ。

 

さらに、山の上にはデパート等の商業施設に加え、小中学校や職業訓練校等の施設も立地していました。

アパートの住人が子育てできる環境が整備され、会社を中心にそこで家族の生活が完結するようになっていたんですね。

 

中には、生まれも育ちも松尾鉱山という人も存在します。

学校を卒業した後、入社前の準備として勤労補導所に入り、除雪や石炭運び等の勤労奉仕をしていたとのこと。

この方はなんと、32年もの歳月を鉱山で過ごしていたと言います!

 

鉱山の発展のために、寝る間を惜しんで働いていたようで「モーレツ社員」だったそうです…

 

また、家族ぐるみの付き合いや地域の催しがたくさんあったことも特徴です。

私生活でも会社の同僚や上司との関わりが深く、まさに会社に人生を捧げていたといえますね。

 

ガツガツと労働力を提供する代わりに裕福な生活が担保される。

その手厚い福利厚生こそが、まさに「雲上の楽園」と呼ばれた所以と考えられます。

 

なんだか古き良き時代のお話といった感じであまりピンとこないですね。

ただ、プライベート丸出しで身を粉にして働く当時の生き方は、現代人の自分には絶対に理解できないと思いました。

個人的には「楽園」というより「地獄」という印象です笑

 

まあ、時代が違えば生き方も変わると思うので、当時は「幸せな生き方」のモデルケースだったのかなと。

 

 

松尾鉱山の閉山と公害の発生

 

株式会社の設立から開発が進み順調に発展していった松尾鉱山ですが、昭和40年以降になると状況が変わります。

実は、この時期から資源の競争の激化や不況等の煽りを受け、松尾地区は衰退の一途をたどることに。

 

これは、石油から硫黄を生成できるようになったことが背景にあります。

要するに、硫黄が他の資源に代替されてしまって価値が暴落したということ。

 

その後も会社の経営は復調することなく、楽園とまで言われた松尾鉱山は昭和44年に事実上閉山となります。

 

閉山後の松尾鉱山では、これまでに掘った硫黄が雨などに流されて水質が赤く汚染される事態になりました。

山の至るところに湧き水があることから、汚染物質は永続的に流されてしまうことに。

 

そのため、鉱山に中和施設をつくることになり、以後ずっと中和作業を行なっています。

現在も後処理は終わっておらず、年間を通して作業を続けているとのこと。

作業のために、県と国が協力して億単位の規模の資金を投じているほどです。

 

閉山した翌年には、松尾鉱山小中学校も閉校し、この地域の多くの人がアパートを去っていきました。

さらに、昭和47年には木造住宅群が焼却されることになります。

 

これは、解体に係るコストの削減と消防火災実験を兼ねて行われたことです。

 

火災実験の様子は映像で残っており、かつての居住者たちにテレビ局がインタビューをしている場面を見て、非情なことをするなぁと感じました。

住む場所を追われ、さらに愛着のある住居が燃やされる時の気持ちなんて聞かなくてもわかることではないでしょうか。

当時から、マスメディアは品のない報道をしていたようでなんだか残念でした。

 

このように、景気の悪化や競争力の低下で閉山になったことに加え、鉱山の開発過程で生じた公害の後処理にも追われました。

 

 

閉山後、廃墟化した松尾鉱山

 

松尾鉱山の閉山後、アパートや学校等の施設は廃墟と化しました。

 

盛岡駅からバスで八幡平方面へ向かい、アスピーテライン「緑ヶ丘」の付近まで行くと、現在も廃墟として残る「緑ヶ丘アパート」が見えてきます。

 

アパート群の入口までは藪を掻き分けて進む必要があります。

 

関連記事:

【雲上の楽園】松尾鉱山跡の「緑ヶ丘アパート」廃墟探索 ~ 前編 ~

緑ヶ丘のバス停からアパートの入口に到達するまでの記事です。

 

アパートの内部は想像以上に広く、構造も似通っていたので、迷路を歩くような感覚でした。

 

関連記事:

【雲上の楽園】松尾鉱山跡の「緑ヶ丘アパート」廃墟探索 ~ 後編 ~

緑ヶ丘アパートの内部を探索した時の記事です。

前世紀の遺物が数多く残り、来訪した人をノスタルジックな気持ちにさせる、非常にスケールの大きな廃墟でした。

 

さらに、他のアパート群とは独立した場所には至誠寮と呼ばれる単身者用アパートの廃墟も残っています。

 

関連記事:

【雲上の楽園】松尾鉱山跡の「緑ヶ丘アパート」廃墟探索 ~ 番外編 ~

番外編として、至誠寮の中を探索した時の記事です。

 

木々の紅葉が廃墟に映える、非常に美しい光景でした…

 

このように、かつて「雲上の楽園」として栄華を誇った松尾鉱山の遺構は、今もなお圧倒的な存在感を放っています。

 

 

各地に残る「松尾鉱山鉄道」廃線跡

 

当時の松尾鉱山には鉄道が走っていました。

そして、現在も各地にその遺構は残っているんです。

 

松尾鉱山資料館の屋外には、かつての鉄道の関連資料が展示されています。

役目を終えた電気機関車です。

非常に綺麗な状態で保存されていますね。

 

以前、廃駅で見た電車とはまた違った印象です。

参考:

山形県鶴岡市善宝寺の廃駅「善宝寺駅」を探索

 

資料館周辺には他にも色々と資料が展示されています。

 

精錬釜やタービン等も残っています。

時が経っても色褪せない産業遺産の数々を見ることができました。

 

さて、これ以外にもまだまだ松尾鉱山鉄道の遺構は残っていると言います。

 

山と田園風景が広がる風光明媚な景色を横目に松尾鉱山鉄道の遺構を探す。

 

周囲に田畑が広がる場所で廃線跡のような道を見つけた。

 

その先には、タイヤが山積みとなっていた。

 

足を踏み外さないよう、タイヤの上を慎重に進むと、何らかの遺構が見えてきた…

 

このコンクリート造りの四角い箱のような建物、なんと昔は駅舎として利用されていました。

かつてここは「田頭駅」と呼ばれ、鉱山鉄道で唯一の遺構が残る駅です。

 

この駅舎は昭和26年に村民の要望でつくられました。

それまでは、待合室なしで冬場も吹雪のなか列車を待っていたというから驚きです。

 

別の角度からも撮影してみた。

寂れた建物からは長い時の流れを感じる。

廃墟となってなお、ずっとこの土地を見守っていたのだろう…

 

近くには栗の木もあります。

秋に訪れたので、旬の時期でした。

 

松尾鉱山鉄道に関する施設は他にも残っています。

 

今では藪に覆われた状態で放置された「鹿野変電所」です。

 

ここは、鉄道に電力を供給する変電所として活用されていました。

 

藪の中に今も残る廃な発電所、なんだか少し物寂しい気持ちになる…

 

真下から見ると「鹿」の文字がまだ残っています。

取り壊されることなく、今もこうして静かに佇んでいるんですね。

 

発電所の中は雑然としている。

今となっては時が止まった場所です…

 

こんな感じで、かつて鉄道が存在したことを示唆する遺構が今も残っていました。

廃線跡を辿るのは意外と時間がかかりましたが、記録として残せて良かったです。

 

 

ひとつの文明の興亡を感じた

 

今回、松尾鉱山の廃墟を探索し、この土地で栄えた一つの文明の興亡を肌で感じました。

アパート内部の錆びついた遺構や部屋の中に残る生活の痕跡などを目にしたことにより、松尾鉱山の繁栄と衰退の様子が脳裏に浮かんでくるような感覚です。

 

かつての住民が「夏草や兵どもが夢の跡」と言う芭蕉の句を引用し、鉱山の様子を表現していました。

そして、実際に足を運んでみたところ、まさにその言葉通りの景色でした。

 

アパート廃墟は、季節や天気、撮る角度などによって多様な景色を見せる。

 

いつの時代も思わぬところで足元をすくわれ、つかの間の栄光は儚くも崩れ去ってしまう印象があります。

産業発展の代償は想像以上に大きく、当時の労働者の想いとは裏腹に「負の遺産」としての禍根を残してしまったのは複雑ですね…

 

このように、廃墟に残るのは必ずしも明るい歴史ばかりではありません。

しかし、廃墟に足を運ぶことでその土地の歴史を五感で感じられることは、探索の醍醐味だと思います。

 

今では忘れ去られた空間の中、ゆっくりと一人でノスタルジックな気分に浸るのも、なかなか良いものですよ。

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little entrepreneur

「さとり世代」と呼ばれる若者です。 なんでもやりたがり屋な性格のため、現在は投資を中心として、いろいろなことに挑戦しております。 人生の目標は、自分らしく自由に生きること! 趣味:読書、廃墟探索、史跡巡り、音楽鑑賞、サッカー観戦、英語学習 投資:FX(外国為替証拠金取引)、仮想通貨、インデックス投資、ETF(上場投資信託)